チャイコフスキーの生涯

突然ですが皆さん、チャイコフスキーと言う人物はご存知ですか?

クラシック音楽好きや、楽器を演奏されている方はもちろん

あまりクラシック音楽を聴かないという方でもご存知の方が多いかと思います

今回はそんなチャイコフスキーという作曲家についてまとめさせて頂こうと思います!

それでは参りましょう٩( ´ω` )و

生まれ

先ずチャイコフスキーさんのざっくりとした紹介をさせて頂きます!( -`ω-)✧

西暦1840年5月7日、町の製鉄所所長である父イリヤと母アレクサンドラの間に生まれました

出生地はロシア中部の鉱山都市のヴォトキンスク

1844年チャイコフスキーが4歳の頃手回し式のオルガンでモーツァルトやロッシーニの音楽にふれます

翌年1845年、彼が5歳の頃マリヤ・パリチコヴァという女性に楽譜の読み方やピアノ等を教わり、益々音楽に魅了されます

飲み込みが早く、普段から歌の伴奏を弾いたりサロンで音楽を聴いたりしていましたが本格的な音楽家への道には進みませんでした(´・∀・`)ヘー

法学から音楽の道へ

1850年10歳のチャイコフスキーは帝室法律学校に入学します

法律学校時代も学校の聖歌隊で音楽を学び、1855年には週に一度ルドルフ・キュンディンガーからピアノを習います

1858年チャイコフスキーが最上級生時に聖歌隊の指揮を担当しますが、結果上手くいかずに指揮への恐怖心が芽生えてしまいます…(´ω

ここからしばらくチャイコフスキーは指揮への恐怖心を抱いてしまうことに…

1859年19歳のチャイコフスキー法律学校を卒業後九等官の官位が与えられ、法務省で務める事になります

法務省に勤めている時も劇場やサロンに足を運び、音楽に対する熱は増していきます

そんな中1861年に知人からアントン・ルビンシテインが創設した帝室ロシア音楽協会(RMO)を知り、ザレンバという人物の音楽理論を学びます

ここからチャイコフスキーさんは法務省と掛け持ちで音楽を学んでいきます

1862年RMOはペテルブルク音楽院に改編されて、チャイコフスキーも入学します

仕事と掛け持ちが難しくなり、1863年に休職届を提出

作曲家が未だ地位を持たないこの時代のロシア、親戚や家族からは音楽家の道を進むのを反対しましたが、父のイリヤは背中を押してくれました

1865年ペテルブルク音楽院を卒業後、アントン・ルビンシテインの弟ニコライ・ルビンシテインが創設した音楽教室に赴任する為モスクワに

1866年に新たに創設されるモスクワ音楽院に赴任します

初めは法学を学び法務省に一度就職したチャイコフスキーさんは教職と作曲家として活動できるようになりました\( ´˘`)/

上手くいかない女性関係

作曲家のエピソードというとドラマチックな物が多いと思う方も多いのでは?

チャイコフスキーさんという大作曲家の女性関係は上手くいかないものでした…( ´ω`)

そもそもチャイコフスキーさんは、同性愛者だったのではというお話があります

法律学校時代の学友のセルゲイ・キレーエフや、ヴァイオリン奏者のコーテク

少し有名なのはエドアルト・ザークという青年

ザークはチャイコフスキーの14歳下で、モスクワ音楽院に入学してチャイコフスキーに教わります

チャイコフスキーはザークの事をとても気にかけていましたが、1873年にザークはピストル自殺をしてこの世を去ってしまい、作曲の活動が滞ってしまうくらい動揺したんですね

そんなチャイコフスキーさんは世間体を考えてか一度結婚しています!

お相手はアントニーナ・ミリュコーヴァ

彼女は名門貴族の娘でチャイコフスキーの曲を聴いてからか彼への愛は燃え上がり、「想いが叶わなければ死んだ方がマシだ」とも告白

当のチャイコフスキーさんはそこまで乗り気では無く「兄としての愛」を約束し1877年7月6日に結婚

しかしこの結婚は上手くいかず、一緒に暮らしたのはわずか33日間Σ(;゚д゚ノ)ノ

その後は別居状態になり毎月支援を約束して2度と一緒に住む事はなかったのです

結果的にこの結婚は大失敗に終わりましたが、実は一度だけ本気で好きになった女性がいたのです!!!

その女性はデジーレ・アルトー

彼女はイタリア・オペラ団のプリマドンナでチャイコフスキーは彼女の歌声を1868年に聴き、恋心をつのらせます

2人の中は順調で婚約までしますが周りは「結婚は才能をダメにする」等反対します( •︠•︡ )

父には励まされますが、翌年の1869年にデジーレは別の男性歌手と結婚してしまいます

これはデジーレがチャイコフスキーの才能をダメにしないように身を引いたのでは?と言われています

チャイコフスキーさんがただ1人結婚を望んだ女性との婚約話は振られた形で終わってしまいます

謎多きファン

チャイコフスキーの歴史を語る際に必ずと言っていい程登場するのがミステリアスな関係だったパトロン

その名もナジェージダ・フォン・メック夫人!

彼女はニコライ・ルビンシテインからチャイコフスキーの事を聞き、編曲の依頼をする所から関係が始まります

メック夫人はロシアの資産家でチャイコフスキーのファン

彼女は毎年6000ルーブルの金銭的支援を1890年まで続けます

その支援のおかげで、モスクワ音楽院を辞職して作曲活動に集中できるようになったのです

チャイコフスキーとメック夫人の手紙のやりとりはなんと768通以上になりますが、お互いに対面したことは無いと言われてます( °_° )

お互いに会わないようにと決めていたようですが、実は偶然に2人は対面してしまった事があるんです

それは1878年メック夫人がフィレンツェに滞在する時にチャイコフスキーも招いて、同時期に2人はフィレンツェに!

その際にもお互い会わないようにしていたが、偶然にもメック夫人の馬車とチャイコフスキーがすれ違い様に挨拶

それでもやり取りは手紙を使い、正式に会うことは無かったそうです

このミステリアスな文通の中にはお互いに恋愛感情を抱いているような手紙もありましたが、1890年に突然終わりを迎えてしまいます

メック夫人から、経済的理由で支援をやめると手紙が( ´ㅁ` )

チャイコフスキーはこの手紙に深く傷つきますが、メック夫人はチャイコフスキーは支援が要らないくらい立派な作曲家になっていた為10年以上続いた文通をやめたといいます

実際のところはっきりとはわかっていないようですが、メック夫人もこの関係の終わりに悲しんだそうです

チャイコフスキーが亡くなる3年前の出来事でした

最期の時は突然に

ロシアの大作曲家チャイコフスキーの死は突然やってきます

1893年自作の交響曲6番『悲愴』を自身の指揮で初演後9日後に急死してしまいます

因みにチャイコフスキーさんは1887年に振ったオペラ<チェレヴィチキ>以降積極的に指揮を振り、『不安は消えた』と手紙に書くが自信がつく事は無かったようです…

原因は『悲愴』を初演した4日後にオストロフスキーの『熱き心』を見た後レストラン「ライナー」で食事

その食事の際に飲んだ水でコレラにかかったと考えられています

闘病ののち兄や弟に見守られながら10月25日に息を引き取ります

すでにロシア内外でチャイコフスキーは大作曲家として認められており、彼の弔問にも多くの人々が訪れます

10月28日にカザン大聖堂にて国葬が執り行われ、アレクサンドルネフスキー修道院墓地に埋葬されます

実の所チャイコフスキーの死因はコレラでは無く、自殺だったのではという説もあります

上章でも書かせて頂きましたが、チャイコフスキーは同性愛者だったというお話があり、ある貴族の男性と関係を持ってしまった結果非公式に裁判が行われ自殺を強要された説があります

しかしこの説は現在では否定されることの方が多いみたいです

チャイコフスキーさんは亡くなった翌年の予定もすでに立てていて、これから更に音楽活動に力を入れていこうとしていた最中

ロシアの大作曲家の死は突然にやって来たしまったのです…

まとめ

如何でしたでしょうか?

過酷なエピソードやミステリアスなエピソードがあったんだなと知って頂けたら嬉しいです

そんなエピソードを知った上で彼の曲を聴いてみると、また違った視点で曲を楽しめるのでは無いでしょうか?

今回はチャイコフスキーさんについてざっくりとまとめさせて頂きました。

また別の作曲家のエピソードでお会いしましょう!

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